≪くらげだってそっくりだ≫

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■ゆめの話

ゆめのなかで君に会えました。

ゆめのなかで君に触れました。

ゆめのなかのあなたの皮膚は現実と同じでとてもすべらかでなめした革のようで、でもそれは現実とはまた違って特別に親密で、また温度がなく、やわらかで、幻のようでした。でも私とあなたはただ黙って互いの手に触れていました。ただそっと手を重ねていました。

ゆめのなかで会えるなら、夢の中で会えるのなら、もっとそれ以上のことをすればいいのにと、手を触れ合う以上のことをできればいいのにと私はいつも夢から目覚めて思うのですが、しかし同時に、これがあるべき姿なのだとも思うのです。腕を触れ合わせ、肩を触れ合わせ……それだけなのです。そこまでです。

その空間をずっとわたしは覚えています。ただ、顔の見えないあなたと(ゆめのなかではいつも、人物の顔のイメージというものがとても稀薄になります。確かにあの人だ、その人であると私には分かるのですがしかしゆめのなかでその人らの顔は見えていないのです。顔を見ている体をして、わたしは何も見ていないのです。ただその人らの表情や手触りや人柄だけを覚えてわたしはゆめから帰ってきます。)静かに向かい合って座り……。

ゆめのなかではいつも、わたしとあなたは顔を合わせ、とても壊れやすく、ほそいほそい綿の糸のような、やわらかい空気のなかで座っています。それはある意味、現実で感じる孤独の感覚とよく似ています。心地よく、静かで、親密な、仄明るい孤独の空気です。その薄明るい、ぼうっとかすんだ白い空間のなかであなたとわたしはただ手の平を触れ合わせています。二人でいるはずのその感覚が、どうして現実での孤独で感じる心持ちに近いのか、それは不思議ですが、わたしはたいていの夢の中でいつもその孤独を感じ、またそれがこの世で最も上質な幸せなのです。二人で指を触れ合わす孤独、その幸せを私はわすれません。しかし……しかし、この感情は、現実のあなたとはまったく乖離した感情です。それを現実のあなたはどう思うでしょうね。

 

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 15分で書く小説のようなもの。小説なんだかなんだかわかんないけど、こんな文章を書くとき私はとても安らぎます。

あたらしくギター

さいきん少しギターを弾くようになった。中学生のときに買ってもらって、ほとんど弾かずに部屋にほっぽられてたアコギ。

 

最近発見したこと、絵とか音楽とかの修練をするのにはツイキャスを使うのが有効。

 

絵とか、音楽とかをしている所をツイキャスで垂れ流すと、人に見られている感覚が常に頭を刺激するようになる。そうすると、根っからの持ち前のサービス精神と人前に立つ恥ずかしさで、絵や音楽にずっと集中できるようになる。一人であてもなく書くことがなくなって、またライブ中継することで意識は常に視聴者のほうへ向くから、絵を書くことに対して無意識の領域が先行していく。

 私にとって特に絵を描くとき、無意識の領域が表に出ていくというのはとても大事な意味をもっている。

それについてなんか語りたいような気分にもなったけど面倒くさいだけなのでとりあえず今日はなし。

 

とりあえずツイキャスが楽しいですということでした。

いろいろ有効活用していけるといいなあ。

 

(どちらも最初の30秒ほどキーボードを打ってる)

メールについて思う小さな文章

メールの向こう側ではどうにも君の声がずっと削り落とされて、とてもとてもちいさなものになっている。メールの向こうで君の顔は遥か彼方、そして向こうのそっぽを向いている。

そんな悲しい荒れ狂う海原のような距離を超えて君の言葉は届いてくる。

その向こうでいったい君がどんな気持ちでいるのかどんな顔でいるのかとても私には分かったものじゃない。地球の裏の彼方から、君の声は地面を通ってやってくる。そんな気持ちがする。

でもだけどその距離を超えて、確かに君の指を動かして、君は私へ言葉を送る。

だから私は少し立ち止まってじっと目をこらして、君の言葉の本当の意味を、地球の裏側のほんとの顔を、ほんとのこころを、なんの手がかりもなく沈む大海原でただひとり想像している。

絵に音楽つけてもらったよ

ひょんなことから絵に音楽をつけてもらいました。

お相手はよこやんさん。→よこやん (yokoya110) on Twitter

最近知り合ったばっかりの、とっても不思議なギタリストのおにーさんです。

 

曲のタイトルは「回転する部屋の中で」。

絵は私がこのまえ書いたもので、それを見てよこやんさんが音楽を書いてくれました。いわゆるコラボレーションです。

絵にタイトルは特になかったんけれど、なんだかいいぐあいに絵と音楽からでてくる想像どもが混じり合う感じ、すごくたのしい。

 

さてさて、動画のタイトルに「カオスの緑」って書いてあるの、お気づきですか。

実はつらくもさん、ひょひょんなことから知り合ったお兄さんたち数人と、「カオスの緑」という音楽集団を結成しました。

この集団の目的は、エレクトロな曲を作り上げること。音があり、詩があり、ミックスがあり、声があります。

ピアノと詩とギターのお兄さんが集まって、そこにプラスされたつらくもさんです。

つらくもさんは楽器ができないので基本的に歌で参戦するつもりですが、活動はまだ打ち合わせ段階。

そのうちなにかおもしろいものができそうなので、いつかお会いしましょう。

 

廃墟文藝誌の表紙絵をかいたよ

 
最近頼まれイラストが増えていてほくほくなつらくもさんです。
今回は、劇団「廃墟文藝部」さんの不定期更新コンテンツ「廃墟文藝誌」の表紙絵を書かせてもらったよ。
 
今回の廃墟文藝誌は、桜をお題に、3人が3つのお話をリレー小説形式で書いた作品。今回の文芸誌はすごくクオリティ高いです。とてもじんわりした。
 
どうしても桜の枝が書きたかったので、写真を見ながら書きました。
一枚かいたときはまだ花びらががくがくした微妙な桜になってしまったけれど
もう一枚書き直したときには、とてものびのび花びらが書けて驚いた。ので、これを表紙にしました。
もう一枚、もう一枚とどんどん書いていったら、もっとのびのびな花びらがかけるのかな。試してみたいと思ったけど、もうその情熱は消えてしまったのでまたこんど。
「絵をかこう。」っていう情熱(ちっぽけだけど)を呼び覚ますような作品に触れられるととても嬉しくなるし、なんといっても脳みそが活性化する感じがする。たのしい。
 
またこういうことで絵をかく機会があると嬉しいなと思った。
もしそんな機会があったら誰だって、あなただって、気兼ねなく言いつけてください。お待ちしております。

ずっと、「無言」の中に込められた気持ちの圧力とか、水圧みたいなものにひどく苦しんできた。

ずうずうしい行動や願望を、あえて言葉に表さず、無言の雰囲気で相手に投げかけることで、それらの「圧力的な意思表示」を「奥ゆかしさ」として表現してしまう嫌らしさに、ずっとずっと苦しんできた。

美徳とは、遠回しで、婉曲な表現だ。

それは分かる。オブラートに包んでほしい言葉もある。

でもそれは決して、オブラートに包めばなんでもいいという御許しにはならない。オブラートに包んだ毒薬が、いったい何のやさしさだというんだろう。逆にそれは、知らず知らずのうちに体をむしばむ。無言のうちに、毒を回す。その、無言で終わってしまうところ、無言で終わらされてしまうところが、ひどく恐ろしい。ひどく怖い。

喉元を過ぎれば熱くない。だけども内臓は音を立てて焼けている。そんなのは許されない。

 

自分が感じた不快感を、そのまま飲み込んでしまうことがつらい。

言えないことがつらい。伝えられないことがつらい。できることなら、私はもっと話し合いたい。

無言の圧力が怖い。無言の意思表示はそもそも、自らの口で相手に伝えるという努力の過程を飛ばしている。自分は苦労をせずに、相手にのみ仕事を押し付けている。分かるよね? わたしはこうしたい。君はこうしてくれるよね? そうだよね? 無言の声と、いやらしく光る瞳がこちらの心をえぐる。

無言の圧力は、自らが背負うべき努力の過程を飛ばしているので、その欲求は自己中心的なものに感じられてしまうのだろうか。そもそも、客観的に、相手に対する敬意と思いやりを持てない思考や性格をしているから、自ら口にするという責任を逃れようとして、その人は無言の圧力に頼ってしまうのではないのか。

 

いつも平静で慈愛に満ちているのならば、そんな人たちが互いに互いを尊重し合うのならば、話し合うということはなんとも楽しく、意義に満ちたものになるけれども、現実、そうはいかないので、それがずいぶん悲しい。

話し合うというところまで行けなくてもいい。でもせめて、私の感じたその思いを、口に出せないまま終わってしまうような会話は、したくない。