≪くらげだってそっくりだ≫

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ずっと、「無言」の中に込められた気持ちの圧力とか、水圧みたいなものにひどく苦しんできた。

ずうずうしい行動や願望を、あえて言葉に表さず、無言の雰囲気で相手に投げかけることで、それらの「圧力的な意思表示」を「奥ゆかしさ」として表現してしまう嫌らしさに、ずっとずっと苦しんできた。

美徳とは、遠回しで、婉曲な表現だ。

それは分かる。オブラートに包んでほしい言葉もある。

でもそれは決して、オブラートに包めばなんでもいいという御許しにはならない。オブラートに包んだ毒薬が、いったい何のやさしさだというんだろう。逆にそれは、知らず知らずのうちに体をむしばむ。無言のうちに、毒を回す。その、無言で終わってしまうところ、無言で終わらされてしまうところが、ひどく恐ろしい。ひどく怖い。

喉元を過ぎれば熱くない。だけども内臓は音を立てて焼けている。そんなのは許されない。

 

自分が感じた不快感を、そのまま飲み込んでしまうことがつらい。

言えないことがつらい。伝えられないことがつらい。できることなら、私はもっと話し合いたい。

無言の圧力が怖い。無言の意思表示はそもそも、自らの口で相手に伝えるという努力の過程を飛ばしている。自分は苦労をせずに、相手にのみ仕事を押し付けている。分かるよね? わたしはこうしたい。君はこうしてくれるよね? そうだよね? 無言の声と、いやらしく光る瞳がこちらの心をえぐる。

無言の圧力は、自らが背負うべき努力の過程を飛ばしているので、その欲求は自己中心的なものに感じられてしまうのだろうか。そもそも、客観的に、相手に対する敬意と思いやりを持てない思考や性格をしているから、自ら口にするという責任を逃れようとして、その人は無言の圧力に頼ってしまうのではないのか。

 

いつも平静で慈愛に満ちているのならば、そんな人たちが互いに互いを尊重し合うのならば、話し合うということはなんとも楽しく、意義に満ちたものになるけれども、現実、そうはいかないので、それがずいぶん悲しい。

話し合うというところまで行けなくてもいい。でもせめて、私の感じたその思いを、口に出せないまま終わってしまうような会話は、したくない。