73日前の日記
「風立ちぬ」見てきた。すばらしく良かった。庵野さんの声がなんともいえず特に素晴らしかった。
庵野さんの声、喋り方はまさに理系のその人そのものの声で、薄っぺらいキャラクターではなくて、そこにいる人物としての声で聞こえてきた。すごいナイスチョイスだと思った。
眼鏡のレンズの映り込みや、光の屈折にものすごい愛を感じたし、道端の雑草や、煙の動き方にも緻密な観察眼と愛があった。きっと私の知らない愛情がそこかしこにうごめいているんだろうこの映画は。すごい。
この日常を日常として再現するには、とてもとても緻密な観察眼と細やかな愛情と、それから根気と情熱がいるんだなと思いました。
今の状況を狙いすましたかのような、風立ちぬの夢のような青空の色と、ユーミンさんの「ひこうき雲」でした。歌詞を読んではっとした。
誰にもわからないけれど。若すぎたけれど。
ぴったりでした。
この数日は疲れました。
という日記がこのブログの下書きフォルダから出てきた。
『宇宙の土の底』
息を吸う、息を吐く、息を吸う、息を吐く、吸う、吐く、吸う、吐く、そして、吸って、潜った。
地球は、水に沈んだ。海が、なにもかも真っ青に塗りつぶした。その広い広い海、広い広い空の日照りに打たれて、わずかなわずかな陸地に残る人々は、砂を、砂を求めていた。生きるのには、陸がいる。陸が、地面が、必要だ。草も、虫も、動物も、地面に住む生き物だ。地面は、砂でできている。
そうして、私は、海に潜る。水の、海の、底の、底の、底のほうへ、真っ直ぐに顔を向けておく。だから、つま先の後ろ、青々とした水、銀色の水面がゆらゆらとしているのを、私はいつも見ずに終わる。息を閉じて、ぐっと、粘液の海に沈む。ずんずんずんと地球の底へと潜って、潜り込んで、その下のほうは、埋め尽くす水はもう、黒く、黒くなって、わたしは、ただジタバタと足を懸命に動かして、もがくだけだ。水のやわらかな重さ、締め付け、抑制を、ひっかいて、押しのけて、潰されそうでも、ちぎれとびそうでも、そうして、すべてが力尽きようとする頃、ふっと、水がやわらかくなる。
「つ。」
と、指先がやわらかな砂に触れる。さらさらとした。
そうだ、沈んでいるだけなのだ。地面は、水の真下で息づいている。
そして私は、砂を汲んで帰ろうと思った。わたしは、小さなガラスのビンを持っていた。小さな、傷だらけの、まあるいビンだ。それで、私は砂を汲んで帰った。すこうしずつ、すこうしずつ、だけどもまだ、陸は増えない。土は増えない。濡れた砂は、すとんと、落ち着いているけれども、含まれた水はどんどん乾いていく、乾いた砂は、にわかにきらきらと微かに光って、さ、さ、と揺れる風に吹かれていく。ので、わたしは毎日、砂を汲んで帰る。
毎日、毎日のことだ。毎日、毎日の暗い暗い水の底。そこに届く光はないけれど、ときおり見える、ちいさく生まれる光の粒はまだ、生きている。何か生き物なんだろうか、まぶたの裏にもよく届く、ちいさなちいさな蛍光。ちらちらと瞬く星々。そう、それで、わたしは宇宙のことを思う。
宇宙は、冷たい。空気もない。ちがう、空気がないから冷たいのだ、という。空気がないから、冷たい? しかしそれは、一体どういうことだろう。この体、この皮膚に触れる空気がないのに、体で、皮膚で、私は冷たさを感じるのだろうか。いえいえ、ちがう、宇宙に空気はない、物質は浮かんでいない。けれども私は、私の体は肉だから、物、だから。そこでうごめく、たんぱく質たち、骨や、脂肪や、水分たちが、宇宙に触れたとたんに、きっと、何もない空間にいっせいに飛び出していくのだ。拡散する。どこまでも広がっていく。それを、きっと、冷たいって言うんだろうな。
それから、わたしは、冷たい宇宙に浮かぶ、金属のロケットのことを思う。冷たい冷たい鋼鉄のロケットが、飛んでいく。海、宇宙の底へと、ずんずん、ずんずん、沈んでいく。そのロケットの暗い室内のなか、硬質の空気(水にも軟水と、硬水があるのだから、空気にも、軟質のものと、硬質のものがあるだろう)を浅く浅く吸って、わたしは懸命に懸命に、小さなまあるい、ガラスの窓の外を眺める。遠く遠くのほうでは、さらさらと、砂粒のような星々が幾千、幾万、じっとじっとこちらを見つめ返す。それらはわたしが、海の底から掬って帰った砂たちの、風でほどけた幾千、幾万の粒だ。わたしはそれらをじっとじっと、ガラスの窓にほおをぎゅっと押し付けて、見つめている。
寒いな。宇宙は、寒いな。鋼鉄のロケット、は、冷たいな。金属の、冷たさは、骨の奥まで、沁みていくな。
ね、砂は、ちいさな、ケイ素の結晶なんだって。それで、雪は、水の小さな精密な結晶なんだよね。雪山で迷い力尽きそうな旅人は、アザラシの腹を裂くんだって。腹を裂いて、その生温かいはらわたにつつまれて死ぬんだ。くさいだろうな。でも、あったかいだろうな。と、思いながら、私は、雪山は、しかし、山であって、海じゃないよ、アザラシは、いないよ、もう、いないよ、と、思い返して、銀色の水面は、「またね」って、ずっと、ずっと、遠い。
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以上の小説は、お題「アザラシ、土、ロケット」。50分くらいで書き上げたものです。ツイッターででもなんでもいいので、感想があると、次に生きてきます。おまちしてます。
今日は、廃墟文芸部の「公開文芸部」に参加してきました。公開文芸部、というのは、要するに「みんなで小説を書く会」です。廃墟文芸部の後藤さん(on twitter)が主催しています。
ルールは、①三つのお題を全て盛り込み ②約30分で、短編小説を書きなさい。というものです。それと、書いた小説はその場で集まったみんなで回し読み、批評をします。今日は、約10人の大所帯でした。いやあ、おもしろかった!
なぜって、30分で、人様に晒す小説を書かなきゃいけない、というライブ感。そして突拍子もないテーマの組み合わせ。脳ミソしぼりました。今日は全部で2度小説を書いたんですが、2度目には皆さんもうヘトヘトになっていました。文章ってすごい。
2本書いた小説のうちの一本が、上のやつです。もう一個は、廃墟文芸部さんのサイトで公開されます。そっちの方がいい感じのはなしなので、そっちも見てみてください。
今日は、今日の廃墟文芸部のおかげで、いままで憧れていた演劇人の赤井さん(on twitter)とか、バンドマンのよこやんさん(on twitter)とかと仲良くなって、今後いろいろ、イベントに出演させていただけるかもしれないような、お約束、アポイントメントをとってしまいました。すっげー嬉しい。すっげーーーすっげーーー嬉しい!
でも、なによりうれしかったのは、自分のこの意味の分からん小説も、意外と、皆さんにちゃんと真面目に読んで頂けたことです。感想がもらえたことです。すごく、楽しくなってきました。感想の力って、すっごい!
もし、できるのであれば、自分でこうやって文章をどんどん書くようにしていって、ゆくゆくは、一人芝居、朗読劇のような、ものがやれたらいいなと、思っています。またひとつ野望が増えた。へっへっへ。
水と水槽
たとえば、水槽に足をつっこむ。
わたしは部屋の窓辺にふたつ水槽を置いていて、片方には水草とザリガニを入れている。片方には水草だけを入れている。東向きの窓からは、朝、しろい光がすっと気持ちよくはいってくる。水槽はそれを受けて、浄化ポンプでかき混ぜられる水がゆらゆらするのを、フローリングにささやかに描いたりしている。それで、私はその水槽を、水槽を通る光を、水槽の中の世界を、眺めているのが好きだ。ザリガニは生きている。表情がある。そこには命がある。水草は、黙っている。あまり成長することもない。たまに葉の端が腐って落ちる。藻に、おおわれて汚れていく。水槽は、いつもきれいではない、いつまでも綺麗ではない。ガラスのコップに注いだ水が、水のほんとの姿ではない。たぶん。山の清水がとろとろと流れ出すのも、うつくしくはあるけれど、たぶん、水のごく一部でしかない。水は、水は、よどむ。よどんだ水は、くさっていく、なぜならば、水のなかには、たくさんのタンパク質、糖質、無機塩類、各種ビタミン、いろいろな物質、粒子、かけら、血、肉、排出物、が、溶けているから。つまり、水は、それは透明なものなのだけれども、水は、いきものを溶かしこむ、大きな大きな命のゼリーなのだ。それが、水のすがたなのだ。だから、ここで水槽に話を戻すとすれば、水槽で生き物を飼うことは、水生生物、魚や、ザリガニや、水草や、そんな生き物を育てるということはつまり、水を、水を飼うということなのだ。そう、水槽を部屋に置いてから、そう思った。水槽は、きれいだ。プラスチックの箱の中の水は、きれいだ。それを眺めることは、心にゆとりをもたらす。光で水がゆれる。泡粒が、水を舞う。それは、わたしの心に流れ込んでくる。それはたしかだ。水槽は、わたしの小さな楽園だ。ユートピア。その通りだ。だけれども、けれど、水槽は小さな小さな、閉じられた生態系だ。水は汚れていく。餌は投入されるばかりで、水槽のなかでザリガニが食べた餌は消化されて、排出される。排出物は、それ以降、回収されることがない。水にとけて、沈む。永遠に、水槽のなかだ。水槽には、どんどんと、栄養の粒子が積もっていく。積もり積もっていく。そうして、水は汚れていく、静かに。水槽はしゃべらない。水槽は、きれいだ。けれども、水槽は、汚れている。汚れた、楽園。が、私の部屋には、ふたつ、置いてある。
立ち上がる。水槽に、足をつっこんでみる。水が、あふれる。
半年まえのことだろう。
『そうなんだよ。
私はいままでずっと君に、「私のようになれなれ。」と思っていたのだけれど、そんな必要ぜんぜんなかったんだ。「みんな違ってみんないい」んだ。私のできることは私がやればよかったし、あなたにできることはもっと他にたくさんあった。それは「かわいさ」だよね、ご愛嬌だよね、ラブリーだよ。
やっぱり私は君のことが好きでね、なにが好きなのかはぜーんぜんわからないんだけどね(共通の話題もないしね)、だけど今は、君がマヨネーズを好きでも全然かまわないなって思うし、別に塩ゆでブロッコリーのおいしさをわかんなくたっていいんだって心から思うよ。ぜんぶぜんぶ勘違いしてたんだ。
ほんとに君はラブリーだよ。すごく好きだよ。何が好きなのかほんとにほんとに意味がわからないけどね。
たぶん一番いけなかったのは、私がムリにこの気持ちを「恋」にあてはめようとしていたからだろう。私のは恋愛じゃないんだ。恋なんてぜんぜん向いてないんだ。「愛してる」なんて全く言えたもんじゃないんだ。私の言う「好き」っていうのは、もっと顔がぱーっとなって、なんだかうれしくなっちゃうような、そんな晴れ晴れとした気持ちなんだ。だから「ラブリー」なんだ。恋じゃないんだ。ただ、とっても君のことが好きなんだ。
という風に、今のところ最新バージョンの結論付けをすることができて、私はとても気分がよくなりました。私は道ばたのたんぽぽが大好きだし、空にかかる雲も心から好きだし、そんな風にして君が大好きです。そういうことでいいよね。いや、まったく頭からシッポまでほんとうに自己満足でしかないような話なんだけれどね。そういうことだ。そういうことだよ。』
というお話が昔のノートのすみっこに書いてありました。
演劇やります。
(写真はわたし。今回の劇とは関係ないけれど。)
演劇やります。めぐりめぐって半年後、3月。
作・演出は後藤章大。キャストは全部で7名、芝原啓成(妄烈キネマレコード) 棚橋愛(星の女子さん) タケダジュンヤ(劇団バッカスの水族館) 宮出貴衣(虚構オメガ) 椎葉星亜(劇団んいい) つらくも七瀬(フリー) 伊藤文乃(オレンヂスタ)。以上。
90分以上の長編作品ということで、劇団にもなにも所属していないしたことのない身分のわたしからすると、どえらいビッグなプロジェクト、すごい。わくわくしますね。くわしくはコチラ。
また、時期をおいおいお知らせします。公演が近くなれば、チケットの受付もいたします。ぜひ、よろしくおねがいします。
はじまりは、わたしが高校二年、演劇部にて作・出演した『あとひとつ、花があったら』。高校演劇の地区大会、県大会、中部大会までの作品だったけれども、あれは今でもわたしの人生の中でのハイライトであるし、この地方の一部の高校演劇部部員の方とか、演劇人の方たちにたくさんたくさん愛してもらって、すごく幸せな作品だった。それを今回、この、廃墟文藝部の主催の後藤さんが見てくださってたおかげで、こんなおもしろそうなプロジェクトに乗ることができて、私はたいへんにたいへん、うれしいです。
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『ポロック 2人だけのアトリエ』という映画を見たい。
というのも、わたしにはすごく大好きな本があって、それは『絵本をつくる』という、五味太郎さんというおじちゃんの書いた本です、その人は、絵本作家です、たとえば「金魚がにげた」とか「きいろいのはちょうちょ」とか私はちいさい頃に読んだ覚えがあるんだけれども、その人が何十冊も何百冊も絵本を出している中で、『絵本をつくる』という本は、めずらしく文章の本で、その中でその五味太郎さんがこういうことを言っていた。
「ジャクソンポロックはすごいよ。ジャクソンポロックほど、画材と作家の方向性が一致している人はいないよ。」
だいたいこんな感じのことを。で、わたしは、この、五味太郎さんの「絵本をつくる」という本を何度も何度も読んでいるんだけれど(わたしは、本は一度読んだら読みっぱなしで、よほど何度も読み返すということをすることがないんだけれども、この本だけは特別に何度も読んでいる。)、そのたびにこのフレーズが、なんとなく頭のなかでぱっと鮮やかに印象付けられていく。その本を開いて、読んでいって、その行に行き着くたびにぽっ、と頭の中で音がする。わたしは、ジャクソンポロックって人がなんなのか、ぜんぜん知らない。彼、絵をかいてるの、ふうん、どんな絵だろうね、この五味太郎さんがすごいっていうんだから、すごいんだろうか、うつくしいんだろうか、それともかわいいのか、どんな絵なんだろうね、なんてことを一瞬思うだけ、それだけなんだけれども。いやしかし、「ジャクソンポロックはすごいよ。」という一言のリズムとか、音のはずみ方とか、五味太郎さんのこの一文は、すごくすてきだと思う、ただ、それだけが、たまーにふっと頭のなかではぜたりして。で、この「絵本をつくる」という本に出合ったのは実に中学3年生の頃で、その中学校の図書館はけっこうきれいでべっこう色のきれいなフローリングで照明もまっしろできらきらしていたんだけれども、そのとき、わたしは美術部に入っていて、そこで、夏休みの読書感想画をえんえんかいていたわけだ、水彩絵の具で何日も何日も、それで、ある日、休み時間に、その本をみつけた。「絵本をつくる 五味太郎」その本は棚に3冊も並んでいた、なんだか、題字がすてきだった、それから、表紙の質感がなんとなく良かった、そして何より、若干夢見がちだったあの頃のわたしには「絵本」を「つくる」という言葉は、すごくすてきに映ったのである。絵本をつくる、絵本作家、それってすてきだ、そうやって食べていけたらどれだけいいだろう、いや、それで食べていくのは難しいにしろ、将来結婚をして、旦那にちょっと稼いでもらって、自分は、絵本をつくって、あるいは、挿絵とか漫画とか小説だとか、そういうものをかいて、そうやって細々と暮らしていけたらどんなに幸せだろうって、その頃はけっこう本気で夢見ていた。とにかく、その本は、なんだかとってもしっくりときて、そのときのわたしは、ちょっと本の中を見ただけで、もう、興味を惹かれてならなかった、とてもすてきだった。だから、私はその本を、すっと棚から持ち上げて、さっと立ち上がって、そのまま、くるりとうしろをむいて机に戻って、かばんに、本をぽーんと入れて、そのまま、その日は家にかえった。つまり、盗んだ。それほど、その本はとても魅力的だった。
それから、もう4年くらい経つわけだけれども、その本は今でもたまに読み返す。むかしは、一か月に一回くらいよみかえしていた。いまは、半年にいっかいくらい結局読んでしまう。すごくしっくりきている。なにがそんなにしっくりきているかというと、五味太郎さんの、彼の、しゃべり方とか、ものの感じかたとか、せいかくとか、さらっと、すっと、気持ちがよくて、たのしくて、チャーミングで、ユーモアがあって、また、そのユーモアの後ろには膨大な量の知識たちがうごめいているんだけれども、しかし、本人はそんなことおくびにも出さないで、いま、ぽっとでたんだよ、というような顔してさ、江戸前なのさ。っていう、このいさぎよさが、とてもすてきなんだ、五味太郎さんは。すてきなんだ。そういうわけで、つまり、この本を中学の図書室から盗んだことはそりゃ、悪いことなんだろうけれども、だめだろうか、これでは私だけが幸せすぎるんだろうか。
とにかく、ジャクソンポロック。ジャクソンポロックのはなしに戻ると、つまりわたしは今まで、ジャクソンポロックという人のことについては、その五味太郎さんの「絵本をつくる」という本の中の一文で見たことがあるだけで、あとはぜーんぜん何も知らなかった、だけれども、今日、今日たまたま、朝起きて、ごはんを食べて、本を読んで、部屋を掃除して、きれいになった床の上で、フリーマーケットでお母さんがもらってきた小学校のちいさな鉄パイプと木でできた椅子にすわりながら、部屋の水槽で飼っているペットのオレンジザリガニくんが餌を食べるところをじっと見ているときに、ふと、わたしは、「ジャクソンポロック」という言葉を思い出して、そうだ、どんな絵を書く人なのか、ずっと知りたかったんだよなと思って、調べてみたんだ。4年越しに。
そうしたら、この記事の一番上にのっけた絵がでてきた。あ、と思った。すてきじゃないか。それから、ネットの画像検索の窓をぽちぽちとみると、これ、こんな写真がでてきた。
あー。と思った、これ、小学生の頃の図画工作の教科書に載っていたよ。覚えている。白黒写真。外人さんが床一面のキャンバスにえのぐを飛び散らせている。それで、そのページを開いて、先生が、さあ今日は、こんな絵をかきましょう。だなんて、そんな授業があったことを覚えている。彼だ、彼がジャクソンポロック、ジャクソンポロックさんだったんだと思って、やけに今日はうれしくなった。それになにより、絵がいい、さすが、すごく良い絵だなーと思った。こんな絵の具のびしばしだけなのに、どうして人は、この絵はいいねだの悪いねだのとうんぬん言うんだろうな。不思議だ。