≪くらげだってそっくりだ≫

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水と水槽

 たとえば、水槽に足をつっこむ。

わたしは部屋の窓辺にふたつ水槽を置いていて、片方には水草とザリガニを入れている。片方には水草だけを入れている。東向きの窓からは、朝、しろい光がすっと気持ちよくはいってくる。水槽はそれを受けて、浄化ポンプでかき混ぜられる水がゆらゆらするのを、フローリングにささやかに描いたりしている。それで、私はその水槽を、水槽を通る光を、水槽の中の世界を、眺めているのが好きだ。ザリガニは生きている。表情がある。そこには命がある。水草は、黙っている。あまり成長することもない。たまに葉の端が腐って落ちる。藻に、おおわれて汚れていく。水槽は、いつもきれいではない、いつまでも綺麗ではない。ガラスのコップに注いだ水が、水のほんとの姿ではない。たぶん。山の清水がとろとろと流れ出すのも、うつくしくはあるけれど、たぶん、水のごく一部でしかない。水は、水は、よどむ。よどんだ水は、くさっていく、なぜならば、水のなかには、たくさんのタンパク質、糖質、無機塩類、各種ビタミン、いろいろな物質、粒子、かけら、血、肉、排出物、が、溶けているから。つまり、水は、それは透明なものなのだけれども、水は、いきものを溶かしこむ、大きな大きな命のゼリーなのだ。それが、水のすがたなのだ。だから、ここで水槽に話を戻すとすれば、水槽で生き物を飼うことは、水生生物、魚や、ザリガニや、水草や、そんな生き物を育てるということはつまり、水を、水を飼うということなのだ。そう、水槽を部屋に置いてから、そう思った。水槽は、きれいだ。プラスチックの箱の中の水は、きれいだ。それを眺めることは、心にゆとりをもたらす。光で水がゆれる。泡粒が、水を舞う。それは、わたしの心に流れ込んでくる。それはたしかだ。水槽は、わたしの小さな楽園だ。ユートピア。その通りだ。だけれども、けれど、水槽は小さな小さな、閉じられた生態系だ。水は汚れていく。餌は投入されるばかりで、水槽のなかでザリガニが食べた餌は消化されて、排出される。排出物は、それ以降、回収されることがない。水にとけて、沈む。永遠に、水槽のなかだ。水槽には、どんどんと、栄養の粒子が積もっていく。積もり積もっていく。そうして、水は汚れていく、静かに。水槽はしゃべらない。水槽は、きれいだ。けれども、水槽は、汚れている。汚れた、楽園。が、私の部屋には、ふたつ、置いてある。

立ち上がる。水槽に、足をつっこんでみる。水が、あふれる。

 
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「即興小説トレーニング」というサイトにて、15分間の制限時間で、上のやつを書いた。気まぐれでやってみたのが、予想以上に楽しかったので、またやりたい。15分しかなかったので、かなり焦って書きました。その締切に追われてる感、たーのしいなこれ、ぞくぞくする。
 
文章を書くことは、小学校の読書感想文とかから随分苦手で、だけども小説を読むのは好きだし、谷川俊太郎さんだとか、詩も好きだし、自分の頭のなかの形にならないようなへんてこなものたちに、何か形を与えられたらいいのになーとずっと思いながら日々をやりすごすのはちょっと辛かった。だから、今後もすこしずつ書く訓練をできたらいいなと思う。
やりたいけど、できないだろうなと思っているのが一番いけないなと、最近思います。手を動かしてみれば、なにができないのか、なにができるのか、割とくっきりとそこに浮かび上がってくる。それから、次はこうしたいな、という矢印が、なにを考えずともひょっこり顔を出す。その矢印くんを見出して、それにぽてぽてついていくことが、何よりも大事なことなんじゃないかと、最近はとくに思うようになりました。
何かをしたいけれども、何もできない、力がない、というのはつらいです。力がないことがつらい、ということを自覚しているのなら、動いて、力をつければいいだけの話だというのは、考えればすぐのことです。でも、実際にはどうかというと、これが、驚くほど何もやらない、やっていない、やっていなかった。それだけは、なんとかしたいなと今後、思います。